市場調査から「売れる商品」琉球ガラスづくりにチャレンジし、収入が不安定な職人の労働環境を改善。
その結果「MADE IN OKINAWA」の琉球ガラスが量産できる組織づくりを構築。
地場産業と観光産業のさらなる発展を目指す。
島袋社長は十数年前、生粋の琉球ガラス職人「源河源吉」さんと出会い、縁あって琉球ガラスづくりから販売まで手掛けるようになる。しかし思ったように商品が売れず苦難の道を歩むことに。 職人やスタッフの思い込みや固定観念を「売れた」事実と結果で、琉球ガラスがもっと流通するようにと商品開発にチャレンジし続けてきました。
「商品づくり」だけでなく「組織づくり」にも果敢に取り組んでます。ガラス職人は一人前になるまで4年も6年かかるのに、読谷で工房を立ち上げた当時は、職人の給与は時給が一般的。工房の職人が安心して仕事に専念できるようと、労働環境の改善にチャレンジする。まず取り組んだのが、正社員雇用。これなら収入も安定して家庭も持てる、定着もできるとガラス職人全員を正社員に雇用する。
島袋社長が「源河源吉」さんと源河源吉琉球ガラス工房を立ち上げて、これまで歩んできた十数年をインタビューして記事にしました。
40歳で独立。その後に様々な経験が今に生かされていく。
ーー 源河源吉さんとの出会いは。
10年以上前だと思いますが、当時、源河源吉さん(以下、源河さん)はベトナムで工場長をしていたころ、所要でベトナムから沖縄に戻って来るたびに源河さんと酒を飲んだりしてました。源河さんは、そう遠くない時期にベトナムで工房をつくろうと思ったいたようで、その手伝いをしてくれないかということでした。
ベトナムで工房をつくるときは、僕も出資して、源河さんの作品を取り扱えられたらと準備してましたが、急きょ沖縄に帰ってくることに。源河さんの読谷の工房は5年以上使ってなかったので、すぐに仕事ができるような状態ではなったです。源河さん一人では厳しいので、社員ほぼ全員(7〜8名)毎週土日、源河さんと窯づくりや掃除、片付けしてました。しかし、土日では間に合わないので、社員一人は平日も終日、源河さんの手伝いに充ててました。源河さんが、琉球ガラスをすぐ作れるように全力でサポートしてました。数カ月ぐらいで看板を掲げて工房をオープンすることができました。
「もっと流通させたい!」一般の消費者が手に届く琉球ガラスに変えて行こう。
ーー 工房をオープンして業績はどうでした。
源河さんが作った作品を販売するために、従業員も募集して読谷・楚辺の工房を再スタートしました。しかし、なかなか採算がとれない。利益が出せない状況でした。
結局、源河さんもお金の面とかで悩むのも疲れるという。職人ですからね。商売人じゃなくて職人だから。源河さんが、作るのに専念できる組織体制に変えていきました。
ーー 商品開発や販売などは苦労したと聞いてます。当時はどんな状況でしたか。
僕らは市場調査というか、やっているので、どういうのが売れそうだということは知ってました。例えば「小さいグラス」を企画したとき、職人さんたちは『こんな小さいグラス誰が買うの』みたいなことを言うんですけど。
実際には売れるんですね。こういった結果や実績を積み重ねていくことは大切だと思います。職人さんたちと新しい商品を企画するときに、話を聞いてもらえる土壌が少しずつできるようになっていきました。
ーー 販売価格も試行錯誤してますよね。
これまで、源河さんの作品は結構な値段してました。もちろん素晴らしい作品ですからその価値が十分ありました。これから一般消費者向けに届けていかなければ事業が成り立たなくなるので、本人と価格について相談しました。
いやな顔されるだろうなと思って話してみたら「もっと流通させたいから」と値決めもこちらに任せると。個展や美術展などに作品を出展してきた方なので、正直びっくりしました。
「この人なら行ける!」と確信。無礼を承知で失礼な依頼をすると..
一度、源河さんが「営業・販売側の提案や相談にどこまで耐えられるのか」みたいなことを考えていました。
あるとき、僕が『グラスにシーサーって書いて欲しい』と無理な相談というか依頼をしました。ただ、周りからは「先生、先生」と呼ばれてる方です。「お前馬鹿じゃないか」と言われるかなと思ったら、「社長、できあがったんですけど、見てもらえますか」と携帯から連絡が。その時思いましたね「この人なら行ける!」と。
ーー 芸術的なところに重きを置いている人だったら口論でしたね。
「こんなもの作れるわけないだろう」みたいな話にはならなかったんですね。グラスに「シーサー」と書かれた商品が売れるわけない。売れるわけないけど、僕が知りたかったのは、「どこまで現場の声に耳を貸してくれるか」「どこまで要求したら駄目ってストップがかかるのか」ということだった。この人はとにかくやってくれるんだと確信しました。よし行けるぞ!という感じです。
ーー 読谷村楚辺の工房から、今の「読谷村座喜味」に移転した理由は。
卸先からのどんどん注文が入ってくるようになり、生産が追いつかない状況でした。工房が狭いことと、窯が1つしか無った。このままだと間に合わないので、広い作業スペースと、窯をもっと増やせる工房が必要です。急いで要望どおりの工房が作れる場所をさがしていました。なかなか探せず苦労しましたが、縁あってこの土地を購入し工房を建てることができました。今では、窯も4つ作れましたし作業スペースもしっかり確保できる十分な工房ができました。
ガラス職人全員を正社員に。これなら家庭も持てるし定着する。
ーー 職人さんが9名と他の工房より職人さんが多いですね。いつからこの体制に。
私たちが今の工房(読谷・座喜味)に移転した当時、琉球ガラスの工房は、親方のような職人が一人居て、サポートする職人が一人か二人の小さな工房がほとんで、サポートする職人さんの給料は時給制が多かったと思います。今もそうでも無いかもしれませんが。
琉球ガラスの職人は、一人前になるには5年も6年もかかるのに、給料が時給だと不安定で、安心して家庭も持てないと思ってました。
この座喜味の工房に移転して、生産力を上げてお買い求めやすい価格を追及していこうと取り組んでいたので、職人をもっと増やす必要がある。私は、職人さんが定着してもらえるようにと正社員の雇用形態に変えていきました。もちろんボーナスや社会保険などの福利厚生もありますから人件費がかなり増えましたよ。
しばらくして銀行や税理士から「なぜ人件費が急に増えたのか?」と聞かれてましてね。 『琉球ガラスの工房も、ちゃんとした会社にしたい。そういったところから直していかないと駄目だと思う』と、人件費が急に増えた理由を説明しました。
琉球ガラスが学べる学校、そのようなものをつくりたい。
ーー これから5年、10年先を見て、何かやりたいことなどありますか。
以前、源河さんとそのようなことで話しをしていたら、学校みたいなのをつくりたいと。
琉球ガラスを作る機会は、そうそうないです。やりたいと思っている人は多いと思います。ただ、芸術的な感じがあるので、すごく入りにくいと。もし、学校があって、しかもある程度収入をもらいながら通える学校があれば、需要はあると思います。
年齢的なことで窯を持ている職人さんが引退して、工房を閉じることがあります。窯を維持するって大変なんです。そういう人たちが先生となって学校が作れて運営できるようになると、技術の継承もできて、いい仕組みが生まれると思います。
その中で何名かが、琉球ガラスの職人として働きたいと思ったら好きな工房を探して働く。もちろん源河源吉琉球ガラス工房を選んでもらえたら嬉しいです。
これから商品づくりや販路開拓だけでなく、職人の育成にも力を入れていきますが、もっと琉球ガラスが地場産業と定着して欲しいです。観光産業の枠組みだけでなく、直接販路を切り開いて需要をつくり成長していきたいですね。